昭和40年05月08日 夜の御理解



 どういう難儀の中にあっても、神様に一心におすがりして、行けば必ずおかげが、受けられる。必ず道が開けると、それは目に見えるほどの華々しいおかげでは、なくてもです。いつの間にか、なんとはなしに、おかげを頂いている。この信心はそれが有難いと思いますね。まあ例えて長いこといえば、私どもの信心をいえば、いわば何十年の信心ですけれども、まあここがこうして、おかげを頂くようになってから、15年間この15年間の間に、椛目にご縁を頂かれた会員、信者の方達がです、ね。
 どの方を見ましてもです、5年たち10年たちしていくうちにです、みんな何とはなしにおかげ頂いていきよりましょうが。信心さして頂かれるようになって、段々困られると言った様な事がなくて、何とはなしに何とはなしにおかげ頂いていくんですね。その何とはなしにというところが、ご信心の有難いとおもうですね。信心生活をさせて頂くということが、神様におすがりさせて頂くという事が有難いんです。ね、こうお願いさせていただいたら、お願いどうりにならなかった。
 なるほどお願いどおりになるような、もう本当にまあ、不思議なことだと言う様なおかげになっていく場合もありますけれどもです、ね、いつの間にか何とはなしに道が開けていく。そういうおかげでなからなければ、それを子供や孫に伝えていくということがですたい、ああ、こりゃ自分たち時代のときは、こうこうだったけれども、子供の時代は、ああ、この信心を受け継いでさえくれれば、道は開けていくなあと、孫の代にはもっとおかげ頂いていくだろうと。ということを私は、感じますですねえ。
 1年まさり代まさり日勝り月勝り、代勝りということを仰いるが、しかしお道の信心をさせて頂いてです、一貫して辛抱し抜かせて頂いて、途中でやめるならいざ知らずです、ね、辛抱し抜かせて頂いておればです、どんぶりがないいつの間にか、何とはなしにおかげ頂いておる。私今朝から先ほどご神前に出させて頂いた、夏草にですねえ、なんちゆうですかねえ、庇護虫のようなのが粟の穂みたいなのがあるでしょうが。
 これから先ばっかりのが丁度粟の穂みたいな感じの雑草なんです。あれを私子供のときにいくつも取ってくるんですよ、そしてこうお縁においてですね、お縁をボンボンボンボンと叩くんですよ。するとどんどんどんどん前に進んで行くんです。あんな遊びをしていた、あの時のことを頂くんですねえ。そして只今の御理解を頂くと。ね、信心によって、叩かれてこう教えられていきよる。
 それでいつの間にか、何とはなしにおかげ頂きよる。次にあのう子供のときに、沢山のあのう、二列に並んで手を組むんです。「ね」、そしてあのう小さいのから、これにこうのせてから、鯉の滝登りというのを致しました。こうやって上げていきよるそしたら中のもんがいちょっいちょっと手を押して行きゃ、身体がどんどんどんどんむこうのほうへ進んでいくという。ね、そういう情景を頂くんです。
 ですからこれはどういうことかと、いうとですねえ、もう一遍にだぁっと走っていくようには、いかなくってもですね、一つひとつの手がかりがあってですね、こうやって上げられておればいつの間にか、何とはなしにむこうのほうに到達するということだと思いますね。私そんな風に感じたんです。信心辛抱し抜かねばいかんですねえ。しかもです手がかりということ、ここが大事です。大事にしなければいけない。
 ということは、どういうことかというとですね、ただいつの間にかです信心させて頂いておればいつの間にか、何とはなしにおかげを頂いていくとゆうだけでは、興がない。信心させて頂いておれば、ね、真の信心をさせて頂いておればです、一年一年有難うなってくるとおっしゃる、その一年一年有難うなっていきながら、私は道がだんだん開けてくるというおかげにならなければ、いけないと思うんです。
 それは今まで例えば、信心の無かった時代からですね、信心を頂く様になり教えを頂くようになりますとです、本当のことが段々分かってくるんです。ね、本当のことがわかってくる。教えによってです、ね、ですから物の見方とか、考え方とか言った様なものが、変わってくるんです。今まではがゆいことだと、こう思っていたような事柄がです、信心の教えを頂き道を教えて頂くと、はがゆいことではなくて有難いことだと、お礼を申し上げねばならないようなことだと、いうようなことが、分かってくる。
 そういう生き方なのです。今日は椛目からも沢山、善導寺の筑水連合会の信心共励会におかげを頂きました。あちらへ参りましたらすぐ、平田さんが会長の平田さんが見えられました。そしたらもうそれこそいんぎんに、私の前に手を付いてから「こんにちはお世話でございました」と、もう今まで私を見られる見方が違うんですねえ。態度が違うんです。帰りなんかでも何回でも、私に、会釈して帰られるんですねえ。
 私はどうしたことだろうかと、言うなら私に対する見方、取り扱い方が変わられた。信心が進まれたといやあ、それまでなんだけど、どうしたことだろうかと、私は思わせて頂きよったらですね、丁度教主様の、三代金光様のお葬式の在ったときのことを頂くんですねえ。はあそんなことがあったかなと、私は思うたんです。例えば道によって助かっておるもの道によって助かっていきよるもの、その教えその助かっていきよるものの姿というものは、やはり信心させて頂く者の魅力であり、素晴らしいことなのだと。
 椛目の大坪さんがと、まあいうなら軽う見られとったのがです、事実のうえに椛目で、沢山の人が助かっていくようになった。そしてもう今にといわれておった、いわゆるはやり神さんなら、まあ5年、5年見りゃ分かる。といいよったのが、5年が10年経ち、10年が15年経たせて頂いているうちに、いよいよ本当のことになってきて。さあもう近い将来にです、半年も致しよりましたらです。
 神様のご計画と皆さんのご計画が、一緒に進んでさへ行けばです、六反からのお屋敷に360坪ですか、70坪からの、大きなお広前が建立されるというのですから、やはり目を見張るようなものがこう、やっぱりあるんじゃないかと思うんですねえ。教主様のご葬儀のときに、椛目からも沢山のお参りを致しました。団体でお参りさせて頂いた。その時にある教会の先生が、椛目に大変その遺恨も無いんだけれど、なにかしらんけれど、もう、目の敵のようにされる先生があって、ね、
 「椛目から団体中から、二人だけどうしても参らせない」ち言い出された。後から申し込まれた誰と誰とはもうでけんと、こういうわけなんですね。というてその人達親子とゆうものは、わざわざその為に喪服まで作ったんですよ。その葬式にいかれるために。だからその人達を「あんたたちは別の汽車で行きなさい、お参りできません」ということは、とても言えないから、私は皆さんと一緒に駅まで行かして頂いて、あそこで発表して「私たち夫婦の者が遅れるから一汽車」「いや一汽車遅れるのじゃない、何分か先に出る急行で行くから」ということに致しました。
ですから、久富重雄さんがお供に来て下さいましたから、まあ私共夫婦と重雄さんと3人で参りました。ですから団体行動いたしておりませんものですから、宿は一緒で御座いましたけれども、やはりその晩発たしてもらう、あちらから帰らせてもらうときの、汽車にも乗れなかった。ですから私どもは一晩泊まらせて頂きましてから、あの控え所に三人泊まらせて頂いた。
 そして私はですもう心に大変な一つの不安を持っておったんです。というのはあまりにも、三代様が素晴らしかったことです。ねえそのいわば教祖の神様そのままのお取次ぎを、して下さった金光様がです、亡くなられたというショックがです、はたして四代様にああゆう意味合いにおいての、金光様が頂けるだろうかと。教主様として拝められるだろうかと、それがもう不安で不安でたまらなかったのです実は。
 ところが私共一晩泊まらせて頂いて、朝のご祈念を頂かせてもらいました。私どもと、重雄さん三人で朝の御祈念を頂かせてもろうた。そしてあそこで教主様の御祈念を頂かせていただいて、頂かせて終わりました時、私の心の上にです、ああ四代様が三代様とおんなじ有難さをもってです、迫力を持ってです、私にせまるようにです、「大丈夫心配するな」と。こう、ゆうて下さるようなものを、今の四代金光様に感ずることがでけたんです。おかげ頂いた。
 団体でわあわあ言って帰っておったら、こういう一番いわば、信心のあん時に私丁度、控え所に居りましたら、行徳先生も一晩泊まっていかれておりました。たまたまあの控え所で、行徳先生といやあ、お偉い先生ですからねえ、善導寺がお父さんです、鹿児島の先生です。「大坪さんどげなふうですか」ち、三代様なくしてからといわれるから、私はその実感をです「ね」。
 私も実は不安で不安でたまらなかったのですけれども、今朝の御祈念に参らせて頂いてから、「もう本当に、三代様をそのままに、四代様を頂けれるようなおかげを心に頂いて」と、「大坪さんおかげ頂きなさったねえ」というてから感心されました。私はまあだそれが頂けれず、もうほんとにそのために、難儀をしておるというて、まあいわれるんですね。信心といやあ、心の問題ですからねえ。
 心でなすことですから自分が拝ました頂いておる、自分がお取次ぎを頂いておる、その教主様が拝めなくなった、もうおしまいです。皆さんでもそうです。皆さんが、親先生とここでいうてくださる。その親先生が軽う見られるようになられたり。先生の言うござることがです。ああまた、あん話というごたるふうになってきたらです、生き生きとしたおかげが、頂けないことは間違いないですね。
そして、私どもはそれから、朝の汽車で発たせて頂きました。急行で帰るんですね、それで、あそこは、何ちゅうとこでしたかねえ、 下車したところは、なんていうとこでしたか、ああ(鞆の浦?)か、あそこでその、何と言うか何かで、下車しなけりば、ならなくなったから、時間があるから、あちらから、鞆の浦にまいりまして、あのう、鯛網で大変有名なところなんです。
 あちらで、有名なお料理屋さんに案内して頂いて、そして、あちらで、それこそたらふく鯛を頂いてから、帰らせていただきました。ああ、急行に乗らなければ、いけなかったんですけれども、急行が無かったんです。そうして、急行を待つ時間を鞆の浦で待ったわけなんですね、ところがなんです。その乗らせて頂いた急行がです、東京から出ている何とかという急行でしたけれども、もう二等車は立錐の余地のないほどに、足の踏み場もないように、乗り込んでるんですねえ。
 それで、私ども、あそこにちょっと、何分かおりましたけど、こりゃ「重雄さんいかんですばい」ち。それで「一等車へ移りましょうや」ち「でなかったら、寝台車を交渉してごらん」ち、というて私どもは一等車のほうに、まいりましたけれども一等車の方も、一つの席もないぐらいにしかももう一杯でした。それから丁度車掌さんが通り合わせましたから、車掌さんに私どもの、三人、何とかならんだろうかと、いいましたら、ちょっとお待ち下さいというて調べて下さった、寝台車が三つあった三等の寝台車でしたけれども、しかも、おんなじ所に三つあった。
 その時にです、今日の平田さんが乗り合わせてあった、私共が三等車に立錐の余地もないような汽車にですね、乗り込んでおるところを見ておられた。ホームで挨拶いたしました。自分は寝台車に乗られる、私共は三等車の方へあのう二等車のほうへ乗らせて頂いた。ところがしばらくしたところが、私のほうの寝台車のほうへきてから、しかも席が三つあってからそのおるところで、またそこで会ったんです。
 もう「私らが行ったら、立錐の余地もないもんですから、こちらにお願いしたらここへ三つあったからこちらへ、参りました」と、まあようこっちにあったですね、こっちに大体ある筈はないとです。私どもの前に休んでおられた人が言うておられました。「私どもが東京を発つときに、一週間前に申し込んでこの席を取らせて頂いた席だ」としかもそれが、私ども三人の席が用意してあったかのように、そこにしてあった。
 そのときの事を今日頂くんですねえ。ははぁ例えばです平田さんあたりは、そこがわかるんです、ね、まあゆうならばですお徳を受けるということは、大した事だなあと思われたんでしょう。そう言う様なことからです、お前に対する見方が段々変わってきたんだと、いう風なことを言うて下さっただと思うんですね、だから大坪総一郎に会釈しておられるのじゃない、いわばその徳に会釈しておられるんだなあという事を、私は感じさせて頂いておる。そんならいわば私が徳をうけておるようにあるけれどもです。
 いわばそれが分かられるんです。平田さんは。だから今のことからです、例えば私共が信心させて頂いておれば、いつの間にかなんとはなしに、かならず一足でも無駄にはさせんと仰るくらいですからいつの間にか、なんとはなしにおかげの道が開けてくる。しかも日勝り月勝り年勝り代勝り親の代よりも子の代というように、これはもう絶対そういう道が開けてくるんですよね。
 ですから、信心をしっかりさしてもらわなければならない、しかもそれを信者からさせて頂いておるというだけじゃなくてです、ね、先ほど申しましたように、人と人とでもです、ね、引っ掛りを作って前に進んでゆくという信心。そこにです物の見方いわゆる、教えというものを頂いてからの信心生活にならなければならないという事。そこにはです物の見方、考え方が変わってくるんです。こう歯がゆい事だと思っていることがお礼を申し上げなければならないと言う様な事に、変わって来るんです。「ね」、
 例えていうなら、どうでしょうか、私がそれこそどんなに文句を言うてもよいでしょう、日頃は御本部参拝といえば、椛目に椛目がお参りしなかったら団体が出来ないくらいの時が、いつもあるんですから。そういうときには無理を言いながら、今日たった二人増えたというだけでです、二人を参らせんという、先生のご真意真意というものがです、それがその先生の真意ではなくて、神様のご真意であったというがです、ご本部でおかげを頂いてきた、帰ってきたというようなところから、考えてみてです。
 一つも腹立てることは、いらんという事になるでしょうが、おかげだという事です、そこを繰り返し頂いておりますとです、どういう理不尽なことを言われてもされてもです、その事に対して、むしろ一種の感謝の心こそ湧くけれども、不足やら不平やら腹立たしいと言った様なものはいわゆる、全然感じないで済む様なおかげが頂かれるという事なんです。帰りましてから再度、調べてみてからなおまた驚きました。
 帰りの朝のお弁当を頂きましてから、私と家内と重雄さんの持っておられる財布がここに帰って来るまでバス代までです、もうきっちりであった事です。重雄さんのもってござる財布の中まで、神様が計算してござったという事になるですねえ。しかもそれが何年前の話をしたんですけれども、私の場合それが日々それなんでしょうが。今日は明日会合に出らして頂いてから、ね、済んだという所に椛目から迎えが来た。ね、
 熊本の里圧教会の方たちが、バスでお参りしておる、私が、いないなんていったら、あら、本当にがっかりなんです。ね、何十名の方たちが、団体参拝してきておるのですもん。も迎えに来たのと立ち上がったのが一緒だった。こちらへ来たらです、飯田先生が先生、「今着いたんですよ、おかげ頂きましたなあ」というて、そのタイミングというか、ね、そういう神様の間違いのない働きの中にです、にちにちおかげ頂いていくのですから、物の見方、考え方が変わらん筈がない。
 楽な楽なじゃない有難いものの見方、考え方が出来ながらです、しかもいつの間にか何とはなしにです、ね、しかも親の代よりも子の代という様に、おかげが広がっていく道を私どもは今、歩かせて頂いてるんだという事だけでも、お道の信心のご縁を頂いておるという事だけでも、椛目に御縁を頂いておるという事がです。愈々私は有難いという事が、分かるんじゃないかと思いますね、なんか目の目きざんにです。
 例えば赤が白になる様なおかげを頂かなければ、おかげでは無い様な思い方、考え方は私は本当じゃないと、ね、ああ上には上があるようにあるけど、叩かれながらです、草がです叩かれているうちに、おいおい向こうにどんどん進んで行く様にです。いつの間にか私どもの、世間での地位、まあ言うなら地位というですかねえ、ついこの頃まで大坪さんがというて、軽く見られておった私がです、いつの間にかです。
 連合会長といやあもう、教師の先生方よりも大事にされておられる、大変まあ言うなら偉い御信者さんなんです。日本全国でも有名な御信者さんなんです。それをまあ私共位な者にですようは丁重に段々なって来ておられるという、私はその丁重されたからどうという事ではないですけれども、そういう風にこちらの見られ方ですね、もう段々いわば神様は私の住まう位置という物を。
 めて下さっておる様な物を感じるのですよ。信心はどうでも一つね、信心辛抱が大事です。どんな事が有りましても教えを頂かせてもろうて、物の見方考え方というものを、段々変わっていくおかげを頂きながらです、特に青年層の方たちの場合なんかは、その基礎を作るのですから、その土台を作るのですから、大事なことだとおもうのです。ね。
   おかげ頂かねばなりません。